2019年7月25日 自分だけの旗を立て、夢に挑む町「香美町に暮らす人」 香美町で夢を叶えて進む 冒険者たちの物語 ~第1弾~

自然の中の営み、深めたい地域とのつながり、手に届く場所で満ち足りる暮らし

ながすくらす・本多秋香(あいか)さん

香美町役場神戸営業所で「兵庫県香美町」の観光PRをしています木原弘一郎と申します。
今回は、「香美町ならではの暮らしの中で夢に挑む人」を第1弾としてご紹介させていただきます。
香美町には、
「自然の中の営み」
「地域とのつながりを深めたい」
「手に届く場所で満ち足りる」
「自分の力を信じて 自ら輝く生き方」
など地方ならではの暮らしをする人たちがいます。

旅企画や地域の頑張る人を紹介する企画などございましたら、ご取材につきましてご検討いただきますようよろしくお願いいたします。
なお、実際に取材に入っていただける場合にはより詳細な情報提供、スケジュール調整、撮影アテンドなど地元調整を含めた最大限のご協力をさせていただきますので何なりと香美町役場神戸営業所木原までお問い合わせください。

 

「紙漉き」(かみすき)とつながる、自然の中の営み
ながすくらす・本多秋香(あいか)さん

「紙漉き」(かみすき)

神戸生まれ神戸育ちの女性が2013年、縁もゆかりもない香美町へ。
村岡区 長須集落でかつて暮らしの道具作りとして根ざしていた「紙漉き」を復活させることで地域を元気にする「集落サポーター」として移住した本多さん。慣れ親しんだ神戸から離れ「ものづくり」の形を追い続けて初めての田舎暮らしに挑戦。
彼女がその中で出会ったものはチャレンジフルな「日常」そのものだった。

問い続けた「ものづくり」の形

20代のころ、地元神戸の下町で服飾関係のお店を開いていた本多さん。
生まれ育った場所でのものづくりの中「これでいいのか」という疑問がぬぐえずにいたころ「阪神淡路大震災を機にその疑問が強くなり、お店を閉めて車で東北や三重、四国などに旅に出ました。
街での暮らししか知らなかった私にとって畑を耕す傍らでものづくりをする人、里山とともに暮らす人との出会いは刺激になり「こんな生活が自分にもできたら」とその後、神戸市内でのまちづくりゼミで学び、まちづくりや地域コミュニティに関わりたいという気持ちが高まったころに出会った「集落 サポーター」という仕事。
地域支援を現地密着型で行うことにより地域の活性化を図るこの仕事を知ったときには、すでに「長須集落で紙漉きを復活させる」という内容が決まっていた。
「知り合いもいない、神戸から3時間もかかる、友達と飲みに行けなくなる。
でも任期は1年間だけ。
とりあえず行ってみようという気持ちで」同じ兵庫県での移住。
でも旅で訪れた三重県よりも遠い。ただ初めて長須集落で2泊ほどしてみたところ「季節も景色も良くてなんだか『私ここで楽しく暮らせそう』って」うれしい予感がわいてきた。
当初の仕事内容として聞いていた紙漉きをすぐに出来たわけではなく、まずは10年間使われていなかった旧長須公民館を使える形にするところから。
5月に移住し改装されたのが12月ごろ。
紙漉きについて独学で学ぶほか研修に行くなどして試行錯誤、これから地域の人たちと紙漉きをしていきたいというところで集落サポーターの任期が終了。
ただ同時に香美町地域おこし協力隊の募集が目に留まった。もっとこの地域で頑張りたいという思いを面接で伝え3年間の任期で地域おこし協力隊として紙漉きに携わることに。
「村岡高校の生徒たちと一緒に紙を漉いて自分たちの賞状を作ったり、マラソン大会の賞状を作ってほしいという依頼を受けて50枚

「高校生を鬼のように働かせて紙作りをしたりとかしました」

そのほか、都市部での出前紙作りワークショップや地元のお店でのワークショップ、魚介を入れた紙漉きなど斬新なアイディアを紙漉きとつなげて実現させる。
「でも私、興味のあることが多すぎて、紙漉き一本には絞れなかったんです」
香美町での暮らしは紙漉き以外にも彼女に数多くの刺激を与えた。

探究心を触発される香美町での暮らし

「田舎暮らしは初めてだったけど、ほんとしっくり」
長須集落は20世帯60人の住民しかいなくて何やっても 筒抜けなんです。
それが煩わしいって思う人もいるかもしれないけど、神戸で育った私には逆に新鮮。程よく放っておいてくれて程よく気にかけてくれる。それが私にはちょうど良い具合。
そうそう、来る前は飲みに行けなくなるのが心配だったんですけど、ここでは堂々と公民館でおじいちゃんたちと飲める。

「楽園みたい」

地域の人の見守りを受けながら、紙漉き以外の分野にもどんどん挑む。
狩猟の免許を取り、
村の人と一緒に鹿を追う。
山道のルートを発掘する。
電気をなるべく使わない暮らしに挑戦するべく、
薪でお風呂をたく。
「猟を通して、地域にある素材や自然を生かす、利用するってごく当たり前のことなんだと感じました。
薪については初めはお茶一杯沸かすのに2時間かかるとか、うまくできなくて。それがだんだんご飯も炊けるようになって」
昔からある知恵や自然にある恵みを利用すること。
季節によって変わる暮らし。現代の人が置き去りにしてしまった営みをこれから続けていきたいという思いを抱いて彼女は進む。
香美町ならば夏は豊かな緑が、冬は白銀の世界が取り囲む。
都会にいたころに見えなかったコントラストがここにはある。
「薪で火を起こした灰は畑にもまくし、紙漉きにだって利用できる。
暮らしのすべてがつながっている。
これからもつながっていくこと、つながっていきたいことがまだまだたくさんあるんです」
初めての田舎暮らし、彼女が挑んでいきたい分野はフィールドのあちらこちらにまだ潜んでいるようだ。

「程よく放っておいてくれて、程よく気にかけてくれる、ちょうどいい具合」

神戸から知り合いもいない香美町に移住、様々な分野に挑戦する彼女をいつも見守り、程よい距離感でつながる。 見守り、受け入れてくれる地域の人の存在が彼女の挑戦を後押しする。

 

「但馬牛」極めたい牛飼いの仕事、深めたい人とのつながり
小林畜産・小林一樹さん

小林畜産・小林一樹さん

広がる田畑、家の横でゆったり時を過ごす牛。
香美町小代区に生まれ育ったものにとって「但馬牛のいる暮らし」は日常的。
進学のため故郷を離れるも「いつか帰ってくる、と思って出たんです」と語る小林さん。
若干27歳で独立、但馬牛の牛飼いとしての旗を掲げる彼が畜産の仕事に、そしてふるさと小代に抱く想いとは。

「牛飼い」の仕事に魅力を感じて

小林さんは、大学への進学を機に香美町を離れ、卒業後は神戸の牧場で経験を積み香美町へUターン。
大学進学時には畜産ではなく農業機械の方面への進路を見据えていた。
大学で同時に畜産も学ぶうち牛飼いの仕事に「面白さ」を感じるようになった。
「頑張ったら頑張った分だけ、牛が返してくれるんです。
餌のやり方や飼い方によって肉質が変わってきますし、 愛情をかけた分だけ良い牛に育ちます」
高級品質の和牛として知られる「但馬牛」実はその発祥はこの香美町小代区。
「田尻号」と呼ばれる雑雄牛は日本全国の黒毛和種の母牛99.9%以上がその子孫である言われ和牛の系統作りに貢献した。
和牛のふるさとである小代区の牛肉はきめ細かく濃厚な味わいで脂の融点が低いためとろける舌触りが絶賛される。
「神戸にいる2年間は研修の気持ちでした。牛飼いの仕事をするなら実家で新しい牛舎を建てて…と思っていたのでいつか帰ろうという気持ちでいました。自分の場合そのタイミングは早めに来ました」
帰って独立しようと考えていた小林さんに畜産農家「上田畜産」の方から「手伝ってくれんか」と声がかかった。

牛飼いとして学び、独立へ

種付・出産された子牛を月齢9カ月まで育て出品する繁殖農家、その子牛を買って月齢28~32カ月まで育てる肥育農家と呼ばれる中「上田畜産」は繁殖も肥育も一貫して行っていて規模も300頭前後と多くの牛を飼育している。
独立する前にその上田畜産で経験を積むことで自分に更なる学びがあるのではないかと考えた小林さん。
「実際、たくさんの牛に触れることで、お産や病気など牛の様々な様子について、見て、経験することができました」
上田畜産には小林さんと同年代の方もいて独立を目指している方や遠方から畜産の技術を学びに来る方など人との出会いも多いのだとか。
「上田畜産は学びたい人を受け入れてくれるんです。小代も畜産農家が減ってきて、高齢化しているので若くて志がある人を育てたいと思ってくださっているようで」
小林さんは多くの学びを得た上田畜産で現在もアルバイトをしながら2017年春に繁殖農家として独立。
将来的な目標は50頭規模で経営を行い、 良い牛を作ること。
小林さんの考える「良い牛」とは。
「僕は繁殖農家なので買ってくれた肥育農家の人が、大きく育つとか、病気にならないとか、喜んでくれるような牛が良い牛と思っています。肉の質をあげていくように試験的な飼育設計も行っています」
目標に向けて試行錯誤しながらも牛に愛情をかけて「良い牛」を作ることに全力を注いでいる。

一度離れたからわかる、ふるさと「小代」の良さ

地方に生まれ育つと、進学・就職などで都会に出るとき「もう田舎には帰って来ない」と決意する若者も多いと聞く。
その中「いつか帰るという気持ちで小代を出た」小林さん。

彼にとって小代の魅力はどういったところにあるのか。
「ありきたりだけど、自然があって、空気がきれいで。あとはやっぱり人じゃないですかね。外に出たらこそ感じるんですけど、人に温かみがあるんです。帰ってきたときには『お帰り』というムードはありました。同年代や少し年上の人は『一緒に飲もうや』って誘ってくれました。小代は世代間の区別がないんで歳の離れた人でも付き合える雰囲気があります」
地域内の付き合いがあるのが面白いと語る小林さん。それは小林さんが地元出身者だからなのか。
「Iターンでもどんどん仲間に入ってますよ。大学のゼミで来てた人が、そのまま地域おこし協力隊で来てくれたり、 小代の人を好きになったからIターンしたっていう人もいたりします」
若い人が一人で移住してきたと聞いたら「一緒に飲もうや」と声をかけて仲良くなったり、その人がSNSで都会の友人に小代の情報をシェアすることで田植えを手伝ってくれる人を呼んだりしたことも。
小代という団結力もあり外にも開かれた地域で小林さんは人とつながり関係を深めていくことを楽しんでいる。

 

手に届く場所で満ち足りる「柤岡の暮らしと仕事」
JINENAN(ジネンアン) ~山村の石窯ピッツェリア~
岸本元気・葉子さん

山村の石窯ピッツェリア 岸本元気・葉子さん

香美町村岡区、標高500mの山上にある集落、柤岡(けびおか)。
かつて民宿だった大きな古民家が木と手仕事の香りが漂うピッツェリアに生まれ変わりました。ゆったりと流れる時間を味わいに遠方からも多くの人が訪れる豊かな自然を感じる空間。
「JINENAN」を経営する岸本元気さん、葉子さんご夫婦。
柤岡の自然とともに暮らし働く二人のライフスタイルとは。

豊かな四季折々の風景と営みがある柤岡に惹かれて

柤岡で育った元気さんと千葉県出身の葉子さんが出会ったのは東京。
ものづくりが好きな二人はその頃から趣味でパンを焼き、ハンドメイドやクラフトを楽しんでいたといいます。
東京で働きながら長い休みが取れるたび元気さんの故郷である柤岡へ。
葉子さんも元気さんのお母さんと一緒に山に入り季節の手仕事を楽しみ、自然や四季折々の風景を満喫しているうちに自然と柤岡という土地に惹かれるようになりました。
二人が「柤岡に帰ろうか」と考え始めたタイミングでお母さんからも「家業の民宿を閉めようと思う」と発信がありました。
現在 JINENAN がある古民家は岸本家の持ち山から木を切り出し、村の人たちとともに建てた思い入れの深い建物。
香美町の中でも特に雪の多い柤岡で冬の間、村の人たちが集まってものづくりをする集いの場でもありました。
「ここは人が集まる場所だからお店をしもていいかもしれない」
それまで東京のイタリアンレストランで勤務していた元気さん。
自然と食の豊かな柤岡で山と自然のある暮らしの中、自分たちの思うお店を作りたいと考えるようになりました。

畑に入り、山に入り、ピッツァを焼く。

「JINENAN」でめぐりつながる暮らしのスタート
ものづくりが好きな二人は和風の民宿をイタリアンレストランにリノベーションするのも自分たちの手で行いました。
自分たちで畳をフローリングに張り替えるなど見慣れない光景に村の人たちも何度も改装の様子を見に来られました。
「はじめから明確に『こんなお店にしたい』と決めていたわけではないのですが、僕たちがいて心地よい店かということを考え、好きなものを置いているうちに今の形になりました」
毎年12月から翌年3月ごろまでJINENAN は冬季休業に入ります。
その「冬ごもり」の季節に毎年少しずつ改装を兼ねてより居心地の良い空間へと手入れし続けてきました。
冬期には二人の好きなものづくりも行い、レストランの営業日にはご自身の作品やお母さんの陶器、近隣の作家さんの作品とともにレストラン内の雑貨コーナーで展示販売しています。
4月から11月も、営業日は土・日・月・火の週4日。残りの3日は畑作業や持ち山の手入れをしています。
空気の澄んだ柤岡で育った野菜を新鮮なままに提供することは柤岡でしか味わえない贅沢です。
JINENAN がピッツェリアとしてリニューアルオープンしたのは山の手入れをしてきたことがきっかけでもありました。
現代では持ち山があって山に入ることが難しく荒れてしまうケースが課題になっていますが本来の山は人と共存しながら暮らしの恵みを入手できる場所でもありました。
元気さんと葉子さんは山の手入れで出る薪をピッツァを焼く燃料として巡らせることにしました。
もちろん石窯も元気さんの手作りです。

ここでしかできないことを、この場所とともに

「香美町は山、川、海がコンパクトにまとまった場所。自分たちの欲しいものはすべてここにありました」
国産の小麦粉と自家製の天然酵母を使って焼き上げるピッツァは生地の香ばしさと食感が大きな魅力です。
季節のメニュー「ケビナーラ」はその時そこにある食材をもとにレシピを考案。
数週間しか取れない食材もあり常に「今 ここにある」そして「今ここにしかない」季節の恵みを凝縮した一枚になります。
具材は野菜のほか香住の海の幸や小代区のジビエなど「ここにあるもの」を中心に取り揃えます。
「山から切り出した薪を燃料にして毎日開店して薪を過剰に使いすぎると里山の自然環境のバランスが崩れてしまいかねません。この村でできることを考えたとき一週間の中でお店に携われる時間は3,4日がめいいっぱいだと感じました。山や畑にいる時間をお金に換算するのは難しいけれど僕たちの大切な生業の時間です」
柤岡だからできることを柤岡という土地に感謝しながらまかなう。
目まぐるしい毎日の中でつい置き去りにしそうなことをもっと自然に丁寧にと心がけて日々の暮らしに精を出す二人。
「仕事のために暮らしているわけじゃなく、日常の暮らしが豊かになることで充実した仕事ができたらいいねと話しています」

 

自分の力を信じて自ら輝く生き方「燻製」を通して伝えたい
生活工房 香味煙(こうみえん)・井上利夫さん

生活工房 香味煙(こうみえん)・井上利夫さん

香美町村岡区の国道9号線沿い「道の駅ハチ北」近くにある燻製工房「香味煙」。
代表の井上さんは燻製の知識がゼロのところから一代で燻製工房を立ち上げました。
町外など遠方からもリピーターの多い香味煙。
味わいや品質もさることながら井上さんの人柄や言葉に触れるべく人々が訪れ続けています。

すべて失った自分に、怖いものはなかった

次男として生まれ育った井上さん。一度は故郷を離れ、大阪府茨木市で就職をしました。
実家は大規模な養鶏場の経営をしていましたが、外国からの安い卵の参入や飼料の値上がりなどの背景を受け経営が難しくなり、ある日井上さんは「一家離散するしかない」という手紙を受け取ります。
一生懸命働く両親の姿を見、尊敬して育った井上さんは「故郷がなくなってしまってはいけない。親孝行がしたい」という思いで帰郷。
その後結婚し、家業を立て直すために東奔西走しましたが、事業は傾いてしまいました。
「海に飛び込み、保険金で賄うしかない…」
極限まで追い込まれた井上さんでしたが、崖の上でたたずむうちマグマのような強い気持ちが湧いてきたのだといいます。
「人は漠然と生まれて生きているわけではない。僕は事業に失敗したが、そのことで天は僕に何をさせようとしているのだろう。飛び込ませようとしているわけじゃない。何か僕に生きている意味があるはずだ」
追い込まれた井上さんにとって最後の力となったのは家族の存在でした。
まず自分を支えてくれている家族のために頑張ろう。
45歳から井上さんの新しい挑戦が始まりました。

自分の光を信じて、ゼロからのスタート

「人の席を奪わず、人を押しのけず」という考え方を愛する井上さん。
もう一度頑張ろうと決めた井上さんは人の席を奪わない「但馬地域で他の誰もしていないこと」を仕事にしようと考えました。新しいジャンルの仕事を起こすことで但馬に新しい文化ができたらという思いもありました。
井上さんが目を留めたのは燻製。
「ヨーロッパ的で、 オシャレで、どこかエキゾチックな要素がある」
燻製はまさしく当時の但馬地域にない新しい文化でした。
燻製についての知識は当時全くなかったと語る井上さんですが一から独学で勉強。
味も香りも良く日本人にも親しみやすい燻製のレシピを自分の力で開発しました。
一度追い込まれたあとで立ち上げた事業はそれまでとは心持が違いました。
「多くの貯金があっても人を助けたり人の役に立つために使わなければ意味がない。お金という意味の豊かさはなくても好きなことに一直線に挑むことに豊かさがある」
香美町のような自然豊かな環境で自分の旗を掲げて生きること。それには自分の能力を信じることだと井上さんは言います。
「今、自分のいる環境は他の誰のせいでもない。でも窮地に追い込まれた時に人は力が出る。惑星のように何かの光を受けて光るのではなく自分自身が恒星となって輝くこと。光が当たらなくなったら暗くなるのではなく、小さくてもいいから光が出るまで強い思いを持つこと」
内側から光る強い熱い思いを胸に井上さんは80歳を迎えようという今も挑戦を続けています。

燻製王国にするのが夢

但馬地域を燻製王国にするのが夢

ゼロから自分で燻製の技術を身に着けた井上さんですが現在、燻製教室の講師も行い自分のレシピのすべてを多くの人に伝えています。
現在、井上さんのお弟子さんは全国に70人います。
「面白いことに燻製のレシピを100%教えても作り手によって違うものができてしまう。燻製講座はボランティアのようなものだが人を育てる、人との関係を作ることが大切だと考えてやっている」
そう語る井上さんの目標は「但馬地域を燻製王国にすること」その第一歩が息子さんでした。
息子さんもまた故郷を離れて暮らしていましたが、帰省の際に楽しそうに燻製を作る井上さんの姿を見て「おやじ楽しそうだな。僕も参加させてよ」と家族と共に帰郷してきました。
5年間香味煙で修業したあと「男はスケールを大きく持たないといけない」という井上さんの考えのもと独立し現在は燻製レストランを経営しています。
「辛い時もあるが絶えず喜ぶこと。それを見ていたら自ら『楽しそうだから自分もやってみたい』と思う人が出てくる」
広い豊かなフィールドに自らの旗を立てて生きることの豊かさや楽しさを知ってほしいと願う井上さん。

「せっかく生まれたんだから自由に生きてほしい」
とお店に来る人やお弟子さん、出会う人たちにエールを送っています。

 

 

令和元年 ワンダ香美 プレスリリース