2024年1月11日 「百手(ももて)の儀式」が行われます ~願うは「平家再興」・・・古くから受け継がれる伝統行事~

兵庫県とは申しましても、神戸市から2番目に遠い位置にあります、県北部の日本海に面した香美町(かみちょう)。
香美町香住区の余部(あまるべ)から、日本一高い位置にある灯台「余部崎灯台」に向かって狭く曲がりくねった断崖絶壁の険しい道を車で行くことおよそ10分、今から839年前「壇ノ浦の戦い(1185)」で、源氏に敗れた平氏がたどり着いたとされる「平家落人伝説」の残る御崎(みさき)集落で行われる伝統行事「百手(ももて)の儀式」 が1月28日に行われます。
これは平家再興を願い受け継がれてきた伝統行事で、「平家」の武将に扮した若者3人が、「源氏」に見立てた的へ「101本」の弓矢を射るものです。
この冬の旅企画などございましたら、ご取材につきましてご検討いただきますようよろしくお願いいたします。

 

■御崎の平家伝説

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
平家物語は誰もが知るこの有名な一文で始まり、平家一門の公家や武者たちが、1185年の壇ノ浦の戦いで力尽き、あるいは源氏に生け捕られるなどし、栄華を極めた平家の悲しい末路が描かれています。
物語のなかでは命を絶ったとされる平家の武将たちですが、実は生き延びて、人里離れた山間のへき地や孤島などで細々と暮らしていたといわれる「平家落人伝説」の残る集落は、全国各地にあります。
香美町香住区にも平家伝説の地が5ヶ所あり、中でも香住区余部の御崎集落は、この戦いで敗れた門脇宰相、門脇中納言とも呼ばれた平教盛(平清盛の異母弟)を大将とし、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門らが同じ船に乗り込み、壱岐・対馬方面に逃れようとしたところ、日本海をさらに東へ漂流し、この付近に流れ着き、磯づたいに御崎までたどり着いたと言われています。
当地にはそれを裏付けるかのように門脇家、伊賀家、矢引家が現存し、この地で生活しています。

断崖絶壁の地にある御崎集落

 

■伝統行事「百手の儀式」

現在も伝承されている平家にまつわる伝統行事「百手の儀式」が毎年1月28日の午後3時半ごろから集落内の「平内神社」で行われています。
これは、なんとしてでも平家復興を願い、日々の鍛練、文武の練磨を怠らず、その修練の歴史が今も行事として残っているものです
当日は、集落の若者3人が、門脇、伊賀、矢引の武将に扮し、境内の御神木に源氏に見立てた的を目掛けて、地区内で採取した竹で作った弓矢で101本の矢を射ます。
他の地方でも弓を引く行事はたくさんありますが、そのほとんどは神事で、五穀豊穣や無病息災を祈る行事です。ところが、御崎集落の「百手の儀式」はまったく違い、神事には関係なく、むしろ自分たちの努力で平家を復興させてやるという、固い決意が行事になったものです。

「控えー控えー、脇に寄れー」と声をかけながら平内神社へ向かう

源氏に見立てた的を目掛けて矢を射る武将に扮した若者

 

■天の恵み「平家蕪」

御崎集落には、この地にしか育たないといわれる「平家蕪(へいけかぶら)」という蕪が自生しています。平家がこの地に身を寄せた際、土地がやせた人里離れた場所であったため、たちまち食料に窮してしまい、神に祈願したところこの蕪に恵まれるようになったと言われています。春には菜の花に似た黄色い花を咲かせます。葉は漬物や煮つけにして、実の部分は小さいですが、漬物や汁物の具などとして食されています。

御崎集落に自生する平家蕪

 

■余部埼灯台(御崎の灯台)

御崎集落から車でさらに5分ほどのところに、余部埼灯台があります。地元では御崎の灯台と呼んでいます。灯台の設置高さ(274m)、灯火の高さ(284m)が日本一で、「恋する灯台」(日本ロマンチスト協会・日本財団)にも認定されています。夏の夜、ここから眺めるイカ釣り船の漁火はイチオシの絶景!

「夏の漁火」高地から見下ろすため、横一線ではなく遠近はっきり

余部埼灯台上空からのドローン映像<香美町地域おこし協力隊員 高橋昇吾撮影>

 

 

202401プレス(百手の儀式)